- 地域文化ナビ
2013年12月09日
- [中国]
日本はきもの博物館がいったん閉館に 広島県福山市松永町
1982年に地域文化賞を受賞された「日本はきもの博物館」から「閉館のお知らせ」というお手紙をいただき、 これはご事情を伺わねば、と思い広島県は福山市に向かうことにしました。
・「日本はきもの博物館」 サントリー地域文化賞プロフィール
https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1982cs1.html
訪問したのは閉館する日の3日前。地元新聞の報道で、福山市に寄贈されることで博物館は存続することが決定したと知り、少し安心をして向かいました。
新大阪から新幹線に乗って福山で下車、在来線で二つ目の松永という駅に博物館はあります。
広島県の東南に位置する松永は、江戸時代初期までは遠浅の海だったとのこと。その後塩田造りのため干拓が進められ、周辺地域から人が集められ塩製地として栄えました。松の緑が永く続くように「松永」と名づけられたそうです。塩田は1960年に廃止となっています。
明治11年、丸山茂助氏が手づくり下駄屋を開店しました。後に、塩を炊く燃料の中に下駄に適した木材があることがわかり、機械化、大量生産化が進められます。昭和30年には年間5600万足を生産するまでになりましたが、人々の生活様式の変化とともに生産は下降の一途をたどることになります。
先人たちの努力の歴史を後世に残したいという思いで、4代目の丸山茂樹氏が1978年につくったのが日本はきもの博物館です。
駅を出ると看板が。35年の歴史を感じさせます。
塩田業と下駄産業が盛んだった頃は街はさぞかし賑やかで活気に溢れていただろうと思いをはせますが、今はとても厳しい・・・・
駅から歩いて5分くらいのところに博物館はあります。
この日は閉館の3日前。既に新聞等で閉館の報道がされていたこともあり、来館者は通常の倍はあるようです。「田下駄から宇宙靴まで、人と大地の接点にあるはきもの」をコンセプトに、日本と世界のはきもの約1万3千点を収蔵、うち2,266点が国指定重要有形民俗文化財です。
それではいくつかの展示物を御覧いただきましょう。
のりの養殖用のげた
男性が恋人に贈るためのはきもの。華やかで可愛らしいですね(左)。
右は何と夜這い用だそうです。
全国の下駄、大集合
海外の靴も展示されています
イチローのオリックス時代のシューズ。有名なスポーツ選手の靴が勢揃いしています
また、同じ敷地内には、1994年に設立された「日本郷土玩具博物館」があります。はきものが労働に結びつくことに対して、遊び心あふれた博物館を、ということでつくられたそうです。
日本と世界から集められた郷土玩具約5万点が収蔵されています。
展示の仕方もユニークで、左のだるまなど圧巻です。
丸山万里子館長、学芸員の市田さんにお話をうかがうことができました。
丸山館長は、博物館の創設者丸山茂樹氏のご夫人で、1996年に氏が逝去されて以来、事業を継承されてきました。
閉館を決意された理由はやはり財政難。ピーク時は年間8万人だった来館者も近年は落ち込んでいました。。博物館を運営管理する遺芳文化財団(理事長は丸山館長)は、国の公益法人制度改革による新法人への移行を断念し、閉館を決めたそうです。
ご主人の茂樹氏は、3代目であるお父様と、下駄づくりは創業から100年は続けると約束をされていたそうです。その100年目に、茂樹氏は私財を投じ、この日本に類をみない博物館をつくり上げたわけです。梅棹忠夫氏(国立民族学博物館初代館長)などの指導はあったもののほぼ独力で。そこには、塩田もなくなり、今また下駄づくりも衰退してゆく姿を目の当たりにし、何とかはきものづくりの文化を後世に残したいという情熱にあふれていたのでしょう。
当時はガラスの外側に貯木場があり、材木はいかだに組まれ海から水路を通って運ばれてきたそうです。
「(茂樹氏から引き継いで)17年間、いい恩いをさせてもらいました」と館長はおっしゃいました。海外には靴を扱った博物館は珍しくなく交流もさかんなようです。「いろいろな人に会えてよかった」とも。
「保存し、後の人にチャンスを与えることが大事なのです」と学芸員の市田さんはおっしゃいました。そういう意味では、市に継承され存続されよかったけれど、同じように情熱をもって運営できるか、市に期待をしたいですね。
建物が古く耐震構造でなくバリアフリーでもないので、その対応をした上で市に寄贈しなくてはならないそうです。「福山市100周年にあたる2016年には再開してほしい」と丸山館長はおっしゃっていました。そこまでは、館長と息子さんの瑞樹氏、スタッフの方々の苦労は続きそうです。
2013年11月24日、このユニークな博物館はいったん35年の歴史に幕を閉じました。